みんなが脱炭素社会について考えるための場づくりをしています
村上 千里(ちさと)さん(消費生活アドバイザー22期)
(公社)日本消費生活アドバイザー・コンサルタント・相談員協会
(NACS)環境委員会委員長
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みんなが脱炭素社会について考えるための場づくりをしています
村上 千里(ちさと)さん(消費生活アドバイザー22期)
(公社)日本消費生活アドバイザー・コンサルタント・相談員協会
(NACS)環境委員会委員長
まず、事務局長をされていたESD-Jについて、うかがいたいと思います。
村上 2005年に「国連持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」がスタートしました。これは国内のNGOの提言を受けて政府が国連に提案したもので、日本においてボトムアップでESDを推進する組織として設立されたのがESD-J(Japan Council on Education for Sustainable Development)です。
ESD-Jは会員100団体・250名のネットワーク組織となり、ESD推進に関する政策提言や施策の協働の実施、ESDの研修開発などに取り組みました。各地で持続可能な社会に向けてさまざまな教育活動をされている人たちが、ESDをキーワードにつながり、活動を広げていくために必要な土台をつくる裏方役といったところでしょうか。
最初は「ESDの10年が始まりますよ。みんなでいっしょに盛り上げて、今までやってきた環境教育や開発教育をもっと広げていきましょう」と呼びかけるところからスタートしました。当時は「持続可能な開発のための教育」という概念はなかなか理解されず、「開発教育とどう違うの?」「今までやってきた環境教育と同じなのでは?」といった疑問をたくさん投げかけられました。そのような状況のなか、全国各地で地域のNGOや教育機関の方々と共にワークショップを開催し、ワイワイ議論しながら概念図と説明文章を作り上げていきました。そうしてまとまったものが、国の実施計画などにも活かされています。国連文書なども参考にしながら概念をゼロから作るのは大変でしたが、その成果は素晴らしい財産になりました。
10年間と期限が区切られた組織だったのですね。
村上 そうです。でも最終年を迎える段階ではまだまだ広がりが十分でなく、「SDGsがスタートするこれからこそESDが必要。2015年以降もESDを続けましょう」という声が上がりました。ESD-Jは「ESDをマルチステークホルダーで推進するナショナルセンターを作りましょう」という提案活動を展開し、またSDGsにESDを記載する働きかけなども行いました。
国際的にも2015年からESDのセカンドステージが始まり、2016年に環境省と文部科学省による官民共同プロジェクト「ESD活動支援センター」が立ち上がりました。このESD継続に向けた動きも、意味のある活動だったと思っています。
早くから環境分野に関心があったのですか。
村上 いえ、最初はたまたま、といった感じでした(笑)。
大学卒業後、「男女平等に評価される会社」という基準で就活先を選び、日本IBM(株)に入社しました。バブル上昇期で「24時間戦えますか」というコマーシャルが放映されていた時代です。忙しくても楽しく仕事していたのですが、限られた市場に多くの企業が商品を売り込み、その競争に勝つために時間を使うことに疑問をもつようになりました。折しも冷戦終結や天安門事件など、社会は激動期。同じ時間を費やすのなら社会の課題解決に直接的に関われる仕事がしたいという気持ちが強くなり、転職を考えはじめました。
たまたま新聞広告で「くらしの木」という環境問題を取り扱う雑誌の編集者募集に目が留まり、受けにいったところ、「編集スタッフには難しいけれど、この団体で働きませんか」というお話がありました。その雑誌を発行していたのが、当時まだ珍しい“食える市民運動”を自称していた「日本リサイクル運動市民の会」だったのです。有機農産物を宅配で届けるビジネスモデルで急成長しているところでした。
転職した1992年はブラジルで地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開催された年で、地球環境問題や環境NGOが日本の新聞で大きく取り上げられていました。そうしたなかで、勤務先のNGOが環境問題の情報センターを立ち上げることになり、その担当になりました。そして3年後、環境省が地球環境パートナーシッププラザを設置するにあたって、私はNGOから出向のような形でその準備に携わる経験をしました。
この間、さまざまな環境問題の解決に向け、その先頭に立って戦っているようなNGOの皆さんともたくさん交流しましたが、私はどちらかというと、そうした問題を知らない人たちに伝え、関心をもってもらい、行動を変えていく橋渡しの役が自分には合っていると思うようになり、今に至っています。